それから彼女とは放課後図書室で会うたび、言葉を交わしていった。彼女の話す言語は僕の話す言語なんかよりも繊細で、美しかった。彼女の言葉を聞いていると、本の中でしか味わったことのない世界が外に飛び出してきているみたいで、とても居心地が良い。気がつけば現実そっちのけで話してしまい、終わりを告げるのは司書さんの「もう少し静かに」と言う言葉か、下校時刻のチャイムだった。
今日もこうして日だまりの下、誰もいない図書室の本棚と本棚の間で言葉を交わす。窓から差し込む黄昏時の斜陽がやけに気持ちが良くて、どっぷりと暖かさに浸かっていた。
「雨音、傘、水滴、水たまり、ミルクキャンデー」
「君はいつから言葉が分からなくなったの?」と彼女が聞く。
僕は彼女の近くでうっすら声を出すように、返事をした。
「ストロベリー、ライム、甘夏、羊羹」
僕の言葉を聞いた彼女は真面目な顔になり、何かを真剣に考えているようだった。手に持っていた「アンの愛情」が段々と傾いてゆき、今にも手から滑り落ちそうだ。
「星の王子さま、アンネフランクの日記、ハリー・ポッター、レモンパイ」
彼女はゆっくりと、自分の今までの境遇を語り始めた。
彼女が言語を理解できなくなったのは、僕と同じく生まれつきだった。耳を閉ざすことをまだ知らなかった彼女は、周りに話しやすい言語で話していたという。でもそれは、他人には理解しがたい、特殊な言語だった。そこで「自分が変わっているんだ」と知った彼女は、「耳を閉ざすこと」よりも「人と関わらないこと」を覚えたらしい。人と関わらないうちに呼び名が「不思議ちゃん」になっていたそうだ。彼女はこの呼び名を気に入っている、と言った。
「白湯、紅茶色の鉛筆、目覚まし時計、ショートケーキ」
僕は彼女に「同士だね」と話しかけると彼女は嬉しそうな、悲しそうな、よく分からない顔で笑った。
朝起きて、学校へ行く。つまらない授業を過ごし、放課後彼女に会いに行く。彼女と話しているうちに日は暮れ、途中まで一緒に帰ると、三叉路で別れる。決まって挨拶は「また明日」だった。
そんな日々を送っていると、僕にある変化が訪れた。
初めは些細なものだった。耳から入ってくる言葉にいつもより少しとげが付いていて、ほんのり表面を削る。ざらっとした触感が僕の心を傷つけて、少し、嫌な気持ちになる。
今までは必死に理解しようとしていたし、必死に考えようとしていたが、最近はどうも上手くいかない。それどころか今まで理解していた言語がどんどんと失われていって、完全に話せなくなっている。僕は日に日に重くなっていく変化に、胸が苦しくなっていった。
元から、聞くのも話すのも嫌だったじゃないか。完全に聞こえなくなったって、完全に話せなくなったって、別に困るほどじゃない。
自分にそう言い聞かせるけど、周りへの違和感はどんどんと大きくなっていき、感じる恐怖もまた大きくなっていく。
オウムの鳴き声を聞くだけで胸が一杯一杯になって、外に出たくなくなっていく。
それでも外に出なければならないのは、彼女がいたからだ。彼女とだけは、上手く話せる。彼女の言葉を聞きたい。彼女と話したい。彼女に日々感じる想いとか、出来事を、口から出したい。そんな欲望だけが唯一の、原動力になっていた。
ある日、僕はオウムがやけに騒いでいるのを感じた。カーカーと鳴いていたはずのオウムは今日ばかりは騒ぎ立てるようにガーガーと鳴いている。大声に充てられた僕は彼女の原動力さえ働かないほどの脱力感に襲われ、部屋から一歩も出られずにいた。
外からは赤い太陽がその身を焦がされ、赤黒く姿を変えている。僕は気分転換に外に出て散歩でもしようと思いつき、軽く服装を整えるとトートバックに「赤毛のアン」の文庫版を入れ、玄関へと向かった。
流石にオウムも鳴き疲れたのか姿を消しており、僕はホッとすると玄関で靴を履いて外へ出た。
玄関を開けると道行く数人の人々がいるだけで、何の変哲もない、普通の日だった。
僕はとりあえず、商店街へと向かうことにした。昨日の夜からまだ何も食べていない。空腹を通り越してそれが普通となってしまったお腹に、何か詰め込まなければならなかった。
家から商店街までは徒歩十分。言葉が聞き取れなくなった耳にイヤホンを挿すとスマホからクラシックを流し、歩き始めた。
道中、同じ学校の制服を着た女子二人組を見かけたが、何か楽しそうに笑いながら話している。
一昔前の僕ならば何故彼女らが笑うのかが分からなかったが、今では分かる。時を共有していることが楽しいのだ。一緒にいて、想いを伝えられるのが楽しいのだ。
彼女はまだ、図書室にいるのだろうか。
そんなことを考えていると、アーケードの入り口へとたどり着いていた。
僕は昔、母親に連れられたパン屋を目指すことにした。
白い外装で、大きな窓から店内が見えるお洒落なパン屋。ガラス越しに見えた色とりどりのパンに興味をそそられた僕は、じっと外から見ていると母親に「食べたい?」と聞かれ、最初こそ意味が分からなかったもののゆっくりと意味を咀嚼し、首を縦に一回振った。
店内へ入るとトレーとトングを手に取り、さっとあんパンとホットドックをトレーの上に乗せた。昔買って貰ったのも、この丸いあんパンだった。僕はイヤホンを耳から外し、首にかける。そしてそのままレジへと向かった。
「お、ねが、いします」
話せているのか話せていないのか分からないような言葉でトレーを差し出すと、店員はぽかんとした顔をしていたが、商品を見て即座に袋詰めを始めた。
「あんパン、ホットドック、以上二点ですね。二点で、380円になります」
「……あ、はい」
その時、僕は不思議な感覚に陥った。幾分か店員の声が今までよりもすんなりと入ってきた気がしたのだ。心を傷つける傷の量が、以前に戻っているみたいだった。
「380円、丁度お預かりしました。こちら、商品です。ありがとうございました」
僕は商品を受け取ると、イヤホンを戻さず、店を出た。
商店街の喧噪が、耳に付く。ガヤガヤとした理解のできない会話の数々が、心を襲う。
だがこの数日よりも明らかに、傷の量は減っていた。言葉を聞いていても理解こそできないものの、胸の苦しみはそこまでに抑えられていた。
こんな日もあるんだな。
休んだ日に見つけた小さな幸福を胸に、僕は家へと急いだ。
翌日、図書室に向かうと、彼女はまた同じ本棚の前で本を読んでいた。
彼女の手にはルーシー・モンゴメリの「アンの友情」が握られている。
一日ぶりの彼女の変わらぬ姿に安堵した。
僕はある程度本を選ぶとその本を片手に、彼女に話しかけに行った。
「ひげそり、体温計、ヘアバンド、アップルパイ」
彼女は僕の声に気がつくと本から顔を上げ、柔らかな笑顔で僕を包んだ。
「封筒、羽毛、ベッドマット、クロワッサン」
一日ぶりに聞く砂糖菓子のような声は心まで届き、一日分固まっていた想いを飄々と溶かしていく。
「アルマゲドン、ライム入りバター、バームクーヘン」
僕は昨日休んでいたことを伝える。すると彼女は「ここに座って」と隣を指さした。
初めてのことで、胸がドキドキする。狭い本棚の間、差し込む夕暮れ時の斜陽と、彼女の匂い。どれもが初めてのことで、胸の高まりが一気に跳ね上がる。
彼女の隣まで行くと、腰を下ろした。そこには二人だけの小さな世界が、待っていた。
近くにいる彼女に存在をしっかりと感じた。彼女は一旦床に本を置くと、僕の方を見て笑った。
「パンプキンパイ」
そう一言呟くと、僕からぷいっと目を離してしまった。
僕は彼女の言葉に戸惑い、どうすれば良いか分からなくなる。でも口は、心だけは動いていて、自然と言葉が出てしまう。
「バナナ入りタルト」
想いは、届いただろうか。一日もブランクを空けてしまうとこんなにも伝えるのが下手になるだなんて、知らなかった。
彼女は僕の言葉を聞くと、余計にそっぽを向いてしまった。
そんな彼女を見ていると自然と笑みがこぼれて、笑ってしまう。
その笑いは段々と形を変え、彼女も取り込んでいった。
本棚の間の、小さな世界。少なからずこの時の僕は世界中で一番、おしゃべりだったと思う。
その日の帰り道。三叉路で彼女と別れると、僕は家を通り越してそのまま商店街のパン屋へ向かうことに決めた。
この二週間、色々あった。話せる相手を見つけ、逆に話せなくなり、元に戻った。
それは僕に勇気をくれた。17年の人生において、こんなに活気に満ち溢れたことはなかった。言葉に対する恐怖は段々と薄れ、次第に彼女を盾にすることでなんとか受け身を取る術を覚えていた。だからこそ、パン屋へ向かうことを決めたのだった。
昨日の順路を追っていくように歩いた。自宅の前を通り、次第に商店街へと入っていく。人々の喧噪は大きく、複雑な物へとなっていく。
パン屋までたどり着いた。僕はトレーとトングを手に取ると昨日と同じくあんパンとホットドック、さらにはレモン入りタルトをトレーに移した。
このレモン入りタルトは彼女が今日熱く語っていた物で、非常に興味をそそられていた。
何でも、中に隠し味として蜂蜜が入っているらしい。この蜂蜜とレモンの相性がそれはそれは良くて、彼女は「このタルトがあれば生きていける」、と絶賛していた。
三点の商品をしっかりと確認すると、レジへと向かった。
「お、お願い、します」
昨日よりかは幾分、話せている気がする。僕はそう言うと、レジにトレーとトングを置いた。
店員は僕のことを見るやいなや瞬時に袋詰めを始めた。よし、言葉も伝わっているみたいだ。
少しばかりの自身が、心に芽生える。
「!“#&%$&%”&$##!$」
不意に、店員の口が動いた気がした。ぼーっとしていたせいか言葉が聞き取れず、理解ができない。仕方がないので謝り、もう一度言って貰うことにした。
「すみ、ません。も、もうい、一度言って、貰っても、いい、ですか?」
慌てたせいか拙い言葉並びになってしまった。
それでも伝わったのか、店員は再び口を開いた。
「!&#(#&“$#”“$&#$”#‘=¥」
確かに、店員の口は動いていた。しっかりと、言葉は彼女の口から出ていた。
でもそれが、なんて言っているのか、全く理解ができなくなっていた。
僕は焦った。この場を、一体どう乗り越えたら良いのか。慌てて、レジの金額表示を見る。そこには562円と表示されていた。
財布から小銭を取り出し、キャッシングトレーに乗せる。僕はそこから、無言でいることしかできなかった。見計らった店員は小銭をレジに入れ、代わりに商品とレシートを手渡した。
僕はそれを受け取るとすぐさま財布をしまい、店を飛び出した。
「!#!“$”“$&$”#!%#$」
後ろでは、店員の声が聞こえる。少し年期の入った、縁側の日だまりのような暖かな声。でも、なんて言っているのかは、全くと言って良いほど分からなかった。
僕は商店街の喧噪に耳を傾ける。ガヤガヤとした声。ザワザワとした声。皆、声は分かるのに、意味は全く分からない。何かを喋るおばさん。何かを熱弁するおじさん。騒ぐ小学生。皆、なんて言っているのかは分からない。
そのうち、強い恐怖と嫌悪感に襲われた。居ても立ってもいられないほど、強烈な怖さが身を襲う。僕は飛び出すように商店街を後にすると住宅街でイヤホンを着け、家路へと着いた。
何も考えず、ただその場から離れたいと一心不乱に歩き続ける。そして、気がつけば家の前へとさしかかっていた。
僕はすぐさま家の鍵を開け、転がり込んだ。リビングでは母親が、何かを頬張りながらテレビを見ている。
靴を脱ぎ、そのまま廊下を通って、自室へと向かう。音を立てないように、小走りで。
リビングのドアの前を通った辺りで偶然、母親と目が合ってしまう。
すると母親は表情を変え、鬼のような表情で僕の方へと向かってくる。
そして勢いよくドアを開け、僕へと突っかかってきた。
「!$&%#&%#!&%#“&#!」
彼女の口はいつものように大きく開き、強い音を発していた。
だが、オウムの声は音としては聞こえる物の、言葉としては何一つ聞こえず、そのまま空気の中に消えていった。
僕は再来した恐怖により、一層足を進めた。ガンガンと足音を立てて二階へと逃げ込む。
すぐさま部屋のドアを閉めて暗い部屋へ閉じこもった。
一体どうしてしまったのだろう。何もかも考えがまとまらない中、ベッドへと倒れ込んだ。
何故理解できないのだろう。何故聞こえないのだろう。何故なんだ。何故、何故なのだろう。
脳内をぐるぐると言葉が回る。メリーゴーランドのように回る単語に嫌悪感がする。
怖い、怖い。助けて、助けて、助けて。僕が手を伸ばしたのは、図書室にいる彼女だった。柔らかな笑みで、砂糖菓子のような声で、その美しい言葉で、この場から助け出して。
そこで、曖昧な意識は途絶えていた。
目が覚めた。そこは目を閉じる前と同じ暗い部屋で、カーテンが防ぐ明かりが、うっすらと部屋を照らしていた。
体をゆっくりと起こす。前日とは違い、体は鉛のように重かった。
壁掛け時計を見る。白い、なんの凝ったデザインもない無機質な時計は16時40分を指していた。
一体何時間寝ていたのだろう。
体に残る恐怖と、理解のできない言葉の数々が頭を駆け巡る。
ああ、死んでしまいそうだ。
吐き気と嫌悪感が背後から忍び寄り、僕の心をひねり潰す。
耐えきれなくなり、部屋から飛び出した。
とりあえず、風呂に入ろう。
僕は決意すると二階から降りて、リビングへと向かった。
そこに、オウムはいた。
何気ない顔でおやつをつまみながらテレビを見ていた。
彼女の顔を見ると途端に、昨日の出来事を思い出す。
カーカーと鳴いてくれよ。いつも通りに。昨日みたいなのは辞めてくれよ。
悲痛の叫びが、内なる声となって暴れ出す。心が、飛び出してしまいそうだ。
僕は意を決すると、リビングのドアを開いた。
彼女は突然開いたドアに驚いたのか、それとも未だ家に居る僕に驚いたのか、こっちを振り向くと、数十秒固まった。
そして理解したのか血相を変えると、僕の方へと詰め寄ってきた。
「あんた今日も学校行ってないの⁉ この先どうするの!」
またカーカーと鳴きだしたオウム。彼女の言葉が聞こえてきた。
昨日とは違う、しっかりとした、言葉の羅列。僕は安堵から、全身の緊張が解けたような感覚がした。
「……ご、ごめん、な、さい」
一言だけ謝るとそそくさと風呂へと向かった。
母親は僕の言葉が聞こえたのか呆気にとられた顔をしてその場に固まった。
熱いシャワーを頭の上からかけると、まるでこの数日のことが夢のように感じられた。
もしこの世界に神様がいるなら、きっと彼らは残酷だと思う。
言葉を諦めた僕に一時の希望を見せ、そしてそれを簡単に打ち砕く。
あのパン屋の店員の声。
何を言っているか分からない、けれど何かは言っている。
理解しようとしても仕切れない、あの恐怖。
思い出して昨日感じた恐怖がまた戻ってくる気がした。
僕はぼーっとする頭をなんとか働かせると早々に体を洗い、風呂から出た。
どうして、あんなにも聞き取れなくなってしまったのか。
何か原因があるんじゃ無いかと思い、一日を遡っていく。
一昨日、パン屋に行って、パンを買って、家に帰って、それで寝て、学校に行った。
そして彼女と図書室で話し、帰宅途中、パン屋に戻った。
ただそれだけの場面に、原因が隠れている。僕にはそれが何だか、見当をつけれずにいた。
昨日の会話を思い出す。
彼女の甘ったるい声。僕たちだけの秘密の会話。冗談交じりの日だまり。
何ら、原因は思い当たらなかった。
それどころか彼女に会いたい想いがどんどん強くなっているのを感じる。
僕は自分の部屋に戻ると時刻を確認した。18時20分。この時間では、彼女は帰ってしまっている。
壁に掛かっている制服ではなく、床に転がっているパジャマに着替えるとベッドに倒れ込んだ。
天井を見上げると、昨日の帰り道がフラッシュバックしてきた。
イヤホンを付けても聞こえてくる、言葉になっていない声の数々。
思い出すだけで吐き気がこみ上げ、思わず嘔吐しそうになる。
あの、オウムの声。
本当に、動物のように、ただうなり声だけを上げている彼女の声は、脳裏に焼き付いて離れなかった。
僕はこれからどうすれば良いんだ。
全身を包み込む霧のような恐怖から身を守るように上から布団を掛けると、僕は暫し枕元に転がっていた本の中に入っていった。
彼女と過ごす放課後とは遠いものの、本の中も独自の暖かさがあった。
早々に忘れよう。
そう決意すると、どんどんと物語の世界に没頭していった。
この世界の言葉なら聞き取れる。この世界なら、僕のことを分かってくれる。
本が彼女の声で語りかけてくるようで、僕はそんな彼女の言葉を、意識が落ちるまで聞き入った。
翌日、目が覚めると外は明るかった。壁に掛かっている時計を見る。長針は11を、短針は43を指していた。
眠たい目を擦り、体を持ち上げる。昨日は恐怖の疲れから、あのまま眠ってしまったらしい。
とりあえず、また風呂に入ることを決意し、下へと降りていった。
リビングには、誰も居なかった。母親はどうやら仕事に出かけたらしい。
脱衣所まで向かうと、パジャマを脱ぎ捨て、シャワーを浴びた。
暖かなお湯が、眠気を乗せて流れていく。ザーと流れるお湯に、思考すらも奪われそうになる。
風呂から上がると新たに下着を着て、自室へと戻った。
時計を確認すると12時10分だ。僕は制服を着ると一昨日買ったパンを食べ、家から出た。
彼女に、会いに行かねばなるまい。
昨日感じた恐怖。いまだ、思い出す嫌悪感。僕は道中一杯一杯になって、いつもより大きい音量で、外部からの言葉を遮断した。
そして学校に着くと、図書室へと向かった。唯一静で、言葉を聞かなくて良い場所はここしかない。彼女と話せる場所は、ここしかない。
いつも夕暮れ時にしか見ないクリーム色の引き戸は、暗い廊下と相まって薄汚れて見える。
僕は静かに、ドアを開けた。室内にはいつもの委員はおらず、目に付くのは司書さんだけだった。
目が合うが一礼だけすると本棚へと向かった。授業中なのに図書室にいる僕に、彼は何も言わなかった。
そのことに内心感謝しつつもいつもの世界へと向かう。
そこを曲がればいつもの場所だ、と思った矢先、僕は気配に気がついた。
誰かいる。
9分類の本棚と本棚の間に、誰かがいる。息遣いや衣擦れの音、さらにはページをめくる音。
嫌に耳に付く音に、一瞬心が氷のように固まった。
僕の居場所はここしかないのに。立ちすくんでいる時間が長く、永遠のように感じる。
意を決して、本棚の間へと足を踏み入れた。
時刻は12時50分。昼間の陽光がカーテンの間から差し込み、いつもの倍はある暖かさで人々を縛り付けていた。
そこに居たのは、蛯谷瑠果だった。
僕らはお互いの顔を見合うと、笑みがこぼれた。
「卵、ハムレット、マフィン、プリン」
「びっくりした」と彼女が笑う。僕も同じ反応に、つい声が大きくなってしまう。
なるほど。先程司書が何も言わなかったのは、彼女が居たからなのか。
納得のいく理由に、笑みは益々大きくなってしまった。前日の恐怖が吹き飛ぶくらいに。
「マスタード、マヨネーズ、ケチャップ、モンブラン」
僕は彼女に「ここに居ても良いかな」と訪ねた。すると彼女はそのままの笑みで、「勿論、良いよ」と言い、隣にスペースを空けた。
彼女の隣に座るのも二回目だ。だんだん慣れてきたかなと思いつつも、やっぱり体は強ばってしまう。一度体の力を抜いて、彼女の隣へと腰掛けた。
彼女は僕が座るのを見ると、視線を本へと戻した。
誰も居ない図書室の中、本棚の狭間に、二人だけ。昼の太陽に照らされて、僕は少しまどろんでしまう。そんなときも静かに、隣にいる彼女に、この世界に代え難い、暖かな存在を感じていた。
キーンコーンカーンコーン。
チャイムの音がする。僕は慌てて目を覚ました。
体をゆっくりと起こす。堅い床に寝ていたせいかいつもより体が重い。
周囲はいつもと変わらない図書室で、色とりどりの背表紙が僕を取り囲んでいた。
不意に、何かがずれ落ちるような感覚がした。よく見ると、僕の体には薄緑色のタオルケットが掛けられている。
どうやらそのまま、寝てしまったようだ。と言うことは、このタオルケットは彼女の物か。
周囲を見渡し、彼女を探す。
彼女は案外近くに居て、僕の隣で真剣に本とにらめっこしていた。
「春、白い雲、ラスク」
「寝ていたのか」。不意に口から言葉がこぼれ落ちた。
僕が起きた気配に気がついたのか彼女は本から視線を上げると、自然にニヤッと笑った。
「はちみつ、雪だるま、陶器のマグカップ、タルトタタン」
「そうだよ。昼ご飯もすっ飛ばして。よっぽど、疲れていたんだね」
無償の愛に、涙がこぼれそうになる。安心してゆっくり眠れたのは久しぶりだった。
「これ、君の?」
僕は床にずり落ちたタオルケットを拾うと、軽く畳んだ。
「そうだよ。いつも鞄に入れてる、お気に入り」
屈託のない笑顔でそう言う彼女は僕からタオルケットを受け取り、自分の膝にかけ始めた。
体に残る甘い匂いは、そのタオルケットに使われている柔軟剤の匂いだろうか。それとも、彼女の匂いなのだろうか。
優しい匂いに包まれて、僕はどこまでも融かされそうな、そんな気がした。
僕は優しいものに包まれる度、気分が暗くなる。顔がこわばる感覚がする。心が暴れ始めて、居ても立っても居られなくなる。
それは拒絶なのだろうか。見知らぬ優しさへの、敵対心なのだろうか。
それがなんなのかは分からなかったが、ずっと、僕の心に映し出されている言葉があった。
助けてほしい。
心に映し出すのは簡単だ。でも口に出すのは、言葉を話すのは、とても出来なかった。
強い違和感と嫌悪感がこみ上げてきて、僕は慌てて口元を押さえた。
「どうしたの?」
彼女は純粋に、心配そうな視線を僕に向けてくる。
彼女しか、彼女しか僕の言葉が通じる人は居ない。
彼女を失えば僕の世界は一生孤独で、寂しい星の惑星へと変わってしまう。それどころか、彼女の後を見る度に、胸がきゅうと締め付けられ、苦しくなることだろう。
「……大丈夫だよ」
僕は安心させるため、わざと嘘をついた。彼女に依存していく自分が怖い。
彼女としか話せない自分が怖い。言葉が理解できなくなっていく、その感覚が、怖い。
窓から注ぐ午後の日だまりが、僕の体にまとわりついて離れない。
気持ち悪いのに、吐き気がするほど気持ち悪いのに、離れない。
俯きながら、自分を押さえ込んだ。
「何か隠し事してない?」
黒い靄の中に、夕暮れ時の斜陽が、うっすらと差し込んだ気がした。
雨上がりの夕焼け。真っ赤で、暖かくて、どこかさみしい。
彼女の一言は、そんな言葉だった。
「……してないよ」
僕はあくまでも、嘘をつき通す。彼女にバレたくない。バレてしまえば、迷惑だったね。ごめんね。と関係が終わってしまう。それは僕の中では、死ぬよりも、嫌なことだった。
「嘘。君の顔を見れば分かるよ。苦しいって。気持ち悪いって。そう言う顔をしてるよ。だから、話して。同じ星の住民同士」
彼女の声が図書室に響き渡った。いつもの話し声とは違う、強い声。
誰もいない午後の図書室に、響き渡る。
僕はゆっくりと顔を上げた。
そこには、彼女がいた。本なんか手放して、僕の手を握り続ける彼女が、そこに座っていた。
「やっと、こっち見てくれた」
屈託のない笑顔が、僕のくすんだ双眸に光をもたらした。
思わず、胸が高鳴ってしまう。
「ねぇ、話してみてよ。私は、どこへも行かないからさ」
本棚と本棚の間の、二人だけの世界。彼女と手を繋いで、座っているだけの、小さな惑星。
僕はほんのちょっとだけ、勇気を出してみることにした。
「……段々、聞こえなくなっているんだ。あの言語が。前までは違和感を抱いただけだったのに、この頃、特に聞こえなくなってる。一昨日、勇気を出して街まで行ってみたんだ。だけど店員さんの声は聞こえても、言葉は聞こえなかった。怖い。怖いんだ。言葉が、聞こえなくなっちゃうんじゃないかって」
言葉をひねり出すと、肩の力を抜いた。想像以上に力が入っていたらしく、強めの疲労感が体を襲う。
彼女は僕の手を握ったまま、言葉を咀嚼しているのか数秒間下を向いていた。
そして顔を上げると、その顔にはまだ見たことのない、彼女の真剣な表情が写っていた。
「……どこから話せば良いかな」
ゆっくりと、砂糖菓子のような声で言葉を紡いでいく。
栗色の髪が太陽の光でより、色を強めている。
いつになく彼女は、美しかった。
「私が、完全にあの言語を聞き取れなくなったのは、小学校5年生の頃。それまでは君と同じく違和感を持っていただけだった。あるとき、委員会で変わった女の子を見つけたの。一つ上の子で、長い、綺麗な黒い髪をした、眼鏡をかけた、おとなしめの女の子」
彼女は物語を綴るように目を閉じて、語り始めた。
「その女の子は、私が無理に話そうとしていた言葉じゃなくって、自分だけの、変わった言葉を綴っていた。そのことを知ったら、何だか自分が馬鹿らしくなっちゃって。無理に話す必要はないんだって。それで、その女の子と仲良くなって、その女の子としか話さない、そんな日常を送っていた。それで、その女の子はそのまま卒業していってしまって。またあの言葉を話すのかーなんて、軽い気持ちでいたの。でもあるとき、気がついたら、私は全く分からなくなっていたよ。あの言語を」
彼女の言葉の重みに、まとわりついていた斜陽がもっと重たくなるのを感じた。
これでは、実質「私のせいだよ」と口にしているような物ではないか。
「そこから私は、『不思議ちゃん』になった。多分だけど、君が話せなくなって言っているのは、この言語に浸りすぎているからなんだよ。私と一緒にね」
不意に、廊下から風の吹き抜ける音がここまで響いてきた気がした。びゅうという風切り音は、まるで僕たちの間を切り裂くように、真っ直ぐにここまで飛び込んできた。
僕は、彼女が次になんて言うのか知っている。伊達に、同じ星に棲んでいない。
彼女と交わした言葉の数々が、脳裏に思い出となってよみがえってくる。
「ごめんね」
彼女はそう言うと、僕の手を離した。そして、床に置いた本を手に取ると、表紙をじっくりと眺めるように、俯いた。
「私のせいで、君は言葉を失っている。本当に、悪かった」
俯いたまま、淡々と言葉を流す彼女に、少しばかり、気が立ってきた。
違う。君のせいなんかじゃない。君が謝るような内容じゃない。
これは、これはきっと、神様が決めた運命なんだ。
「……違う。君が謝るようなことじゃない」
本の表紙をなぞる彼女の手を上から自分の手で覆い被せた。
「これは、神様が決めたルールなんだ。元から、僕が話せる言語はこの言語だけ。今まで無理して話して、それが祟って、言葉が分からなくなったんだ。元に戻っただけだよ」
心の奥底に貯まっていた黒い液体を、バシャッとひっくり返した。
少しばかり、心が軽くなった気がする。
「……そんなことはないよ。私は、こういう結末が訪れることを知っていた。だって、自分が昔に一度、体験してるから。話し相手が欲しいばっかりに君を使うだなんて、本当にひどい奴だと思う。私は、自分勝手だ」
彼女は俯きながら懺悔した。全て、自分が悪いんだと。
彼女の手が、かすかに震えているのを感じた。小刻みにブルブルと震えている真っ白な手を、震えを止めるように強く握りしめる。
それでも、手の震えは一向に収まらなかった。
「ごめん。だから、最後に、質問させてほしい」
一呼吸置くと、彼女は言葉を紡ぎ始めた。それは、この関係への終止符の言葉だ。
どっちにしろ、隠し事は出来なかった。だって、同じ星に住んでいるのだから。
僕は彼女の言葉を噛みしめるように、ゆっくりと耳を傾けた。
「私と、二人だけの世界で生きていきたいか、それとも現実を取るか。わがままだって知っている。けれど君と出会えたのも、さっきの言葉を借りるなら運命だ。だから私は、君を離したくない」
彼女は顔を上げ、僕と視線を合わせる。丸い瞳に宿るいつになく強い力に、僕の心は彼女に惹かれていた。こんなにも他人と真剣に話し合えたのは、初めてだったから。
「…………」
彼女の話が終わると、僕は脳内で彼女の言葉を整理し始めた。
精一杯を振り絞って放たれた言葉は余すところがないよう、しっかりと拾い上げた。
今度は、僕が答えを見つける番だ。
「…………分かった。でも、考える時間がほしい」
「うん、いつでも待ってるよ」
強い力の瞳はいつの間にかいつも通り柔らかく笑う彼女の瞳に変わっていた。
段々と、外の色が変わってきた気がする。さっきまであんなにも煌々としていた太陽は、雰囲気を変え灰色のフィルターを通したように、ほんの少しだけ暗くなっている。
キーンコーンカーンコーン。
午後の授業終了のチャイムが鳴った。廊下からは一斉に席の立つ音や話し声が聞こえてきた。
「ありがとう。話しを聞いてくれて」
僕はそう言って立ち上がった。ずっと座っていたせいか、体がパキパキ鳴る。
あっという間に過ぎた午後の時間。でもそれはかけがえのない、選択の時間へと変わってしまった。
彼女が勇気を出して口を開いてくれたように、これからは、僕の番だ。
改めて心を入れ替えると鞄からイヤホンを取り出し、彼女に別れを告げた。
「じゃあ、今日は帰るよ」
「うん。君もきっと疲れているから、今日はゆっくり休んでね」
栗色の髪をふんわりと振りながら、彼女は微笑んだ。
髪の上で揺れるガラスの靴のヘアピンが、窓から差す木漏れ日に反射して、キラキラと輝いていた。

